平和への祈りをこめて
日本三大砂丘の吹上浜に昭和19年の終わり頃、陸軍最後の飛行場が建設されました。しかし、終戦間際のわずか四か月しか使われなかったので『幻の特攻基地』と言われています。そしてこの万世特攻基地から17歳の少年飛行兵を含め201名の特攻隊員が祖国を護るために沖縄に出撃していきました。特攻隊員には遺骨はありません。しかし、この世に書き残した遺書や残された遺品があります。残された品々は時代を越えて、今に語りかけます。
航空特攻作戦とは
昭和19年10月フィリピンのレイテ島において最初の組織的航空特攻が海軍敷島隊によって行われました。フィリピンに米軍が上陸し日本への軍事物資の搬送が途絶すれば戦争継続は不可能となる為行われた作戦でした。航空特攻は起死回生の策として航空機に爆弾を取り付け乗員とともに敵艦船に体当りさせる前代未聞の戦法であり、十死零生(決して生還を期待できない)決死のものでした。その後、陸軍も鉾田教導飛行師団で編成された万朶隊、浜松教導飛行師団で編成された富嶽隊を皮切りにフィリピン戦で特攻を行うようになりました。
捷号作戦と呼ばれたフィリピンの航空作戦で米艦隊に打撃を与えたもののアメリカの物量の前にフィリピンへの進攻を阻止できず、次の米軍の目標は沖縄とされました。沖縄を占領し、航空基地、輸送基地を造って九州を足掛かりとして東京に進攻し、首都東京を陥落させる事を意図した米軍に対して、日本の陸海軍は共同で天号作戦(沖縄航空作戦)を発令。特攻を主体として沖縄に集結する米艦隊と対峙する事となり、海軍は鹿児島県の鹿屋に第五航空艦隊司令部を、陸軍は第六航空軍司令部を福岡にそれぞれ置いて対処しました。
陸軍における天号作戦(沖縄航空作戦)の主力となったのは少年飛行兵や特操と呼ばれる最年少の軍人や予備役の学徒(大学生・専門学校生・師範学校生)でした。彼らの大半は昭和17年、18年に航空学校等に入校し教育を受けていましたが戦況の悪化による教育期間の短縮・簡略化や燃料の枯渇により錬成不足の状態で特攻作戦に参加し沖縄の海へ散りました。
特別攻撃隊【九九式襲撃機・九七式戦闘機・二式高等練習機・一式戦闘機(隼)】
※万世飛行場から出撃した特別攻撃隊の使用した航空機
【万世よりの特別攻撃隊出撃期間:昭和20年4月6日から6月19日】
天号作戦(沖縄航空作戦)亊、第六航空軍司令部付となると陸軍の特別攻撃隊は振武隊という名称となりました。第六航空軍司令部付となる以前は編成担任部隊による独自の名称で呼称されたりまたはと〇隊という名称で呼ばれていました。万世から出撃した特別攻撃隊は14隊存在します。
万世特攻平和祈念館1階には
第72振武隊
仔犬を抱いた少年飛行兵の写真で有名な第72振武隊、この写真は昭和20年5月26日出撃2時間前に万世飛行場で撮影されたものです。5月26日は沖縄の天候が悪く翌朝5月27日午前5時写真の5名を含む9名が散華されました。
※写真は第72振武隊

飛行第66戦隊(襲撃隊九九式襲撃機)
【万世駐留期間:昭和20年3月末から7月】
天号作戦(沖縄航空作戦)時第六航空軍の指揮下に入り福岡県大刀洗飛行場に集結後、万世飛行場に展開。沖縄航空作戦の主任務としては敵艦船への攻撃及び敵基地への攻撃。沖縄陥落後、大刀洗北飛行場に移駐、終戦を迎えました。
※写真は万世三角兵舎前の第66戦隊員
飛行第55戦隊(戦闘隊 三式戦闘機「飛燕」)
【万世駐留期間:昭和20年4月〜7月】
天号作戦(沖縄航空作戦)時第六航空軍の指揮下に入り福岡県芦屋飛行場に展開のあと万世飛行場へ。主な任務としては襲撃隊や特攻振武隊の誘導、掩護、発進掩護、戦果確認、万世の防空、沖縄陥落後の7月、制号作戦発令のため、愛知県小牧飛行場へ。その後、8月大阪佐野飛行場に移駐、終戦を迎えました。
※写真は飛行第55戦隊万世格納庫前で撮影されたもの
第19航空通信連隊
【万世駐留期間:昭和20年4月〜6月】
万世で有線・無線により通信網の構築を行っていました。昭和20年3月18日の米軍の艦載機による空襲で当時19歳の通信兵杉浦正俶伍長(軍曹)が戦死、杉浦正俶伍長(軍曹)は万世飛行場最初の戦死者となりました。
※写真は第19航空通信連隊杉浦正俶伍長(軍曹)

